第一次世界大戦とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の面影が残るサラエボ

第一次世界大戦とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の面影が残るサラエボ

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。読者の皆さんはサラエボというキーワードを、一度は世界史の授業で聞いているはずです。第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件、泥沼のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、サラエボオリンピック、この地では歴史上本当に色々な出来事が起きた。

今回はサラエボを実際に訪れてみたので、過去にどういった変遷をサラエボは歩んできたのか、現在のサラエボの姿を交えながら紹介していきます。過去の面影が街中に色濃く残っているので、興味深い写真が撮れているかと思います。

それではサラエボ事件、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、サラエボオリンピックの順番で紹介していきましょう。

 

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件

サラエボと聞いてまず初めに思い浮かぶのは、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件だと思う。このサラエボ事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国の対立から起こりました。

1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻が、サラエボを訪問していた時に、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されました。これが、かの有名なサラエボ事件です。

この事件は単に、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国の対立に見えますが、この事件をきっかけに世界中のf国がどんどん参戦してきて第一次世界大戦を招きます。

フランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告します。主な主要国は以下の通りです。バルカン半島はヨーロッパの火薬庫とも言われ、バルカン半島での対立が世界を招きました。

  • 同盟国:オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ、オスマン帝国、ブルガリア帝王国
  • 協商国:セルビア、フランス、イギリス帝国、ロシア帝国、モンテネグロ、大日本帝国(日英同盟があったため参戦)
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    第一次世界大戦の結果、をフランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺したサラエボ側の協商国が勝利します。このサラエボ事件のあった場所は今でもしっかり残されていて、現場の前にはサラエボ事件博物館が建てられています。サラエボに訪れたらまずここに行きましょう。

    こちらがサラエボ事件があったまさに現場です。

    こちらがサラエボ事件があったまさに現場です。

     

    このピストルでフランツ・フェルディナントは撃たれました。

    このピストルでフランツ・フェルディナントは撃たれました。

     
     

    人類史上最も複雑なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれるユーゴスラビアを統治していたチトーの死去により勃発した紛争です。

    国家の枠組みを作ったチトーの本拠地セルビアと、独立がしたい各国が泥沼の内戦を繰り広げます。これがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争です。この紛争は1992年から1995年までの3年間続きました。

    結局この紛争をきっかけにユーゴスラビアは解体し、「スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニア」が誕生しました。

    先ほど紹介したように、ユーゴスラビアは6つの共和国と呼ばれていましたが、紛争後は1カ国増えています。それがコソボです。コソボについてはこちらの記事を参考にしてください。

    コソボ紛争とNATOのセルビア空爆について分かりやすく解説します!
    本記事ではコソボ紛争とNATOのセルビア空爆について、分かりやすく解説しています。日本に住んでいると中々、紛争や民族の争いに関わる機会がないので、本記事を通じて生々しい現場をお伝えできればと思います。
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    ユーゴスラビアの各地で独立運動が起きましたが、最も複雑な紛争を抱えたのがサラエボで起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争です。セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の三者が表に立ち、裏で支援する国が出てきたので複雑になりました。

    この紛争の末路は、クロアチアの独立を認め、クロアチア内にあるセルビア人居住区をセルビアに併合し、クロアチア人とボシュニャク人の国「ボスニア・ヘルツェゴビナ」建国ということで決着がつきました。

    余談ですが、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナにいたセルビア人難民が、コソボ自治州に逃れたために、コソボ自治州にいたアルバニア人と対立が起きます。これがコソボ紛争です。

    いかに紛争が激しかったのかを物語る写真。

    いかに紛争が激しかったのかを物語る写真。

     

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際にジャーナリストが泊まっていたホテル。目の前にある道路はスナイパーストリートと呼ばれ、動くものは全て射殺された。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際にジャーナリストが泊まっていたホテル。目の前にある道路はスナイパーストリートと呼ばれ、動くものは全て射殺された。

     
     

    平和を願ってサラエボでオリンピックを開催するも

    1984年にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにて冬季オリンピックが開催されました。第一次世界大戦が起きたサラエボで開催することで、平和のメッセージを全世界に伝えることができました。

    しかし、先ほどお伝えしたようにサラエボオリンピックから10年も経たないうちにボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起きてしまします。サラエボオリンピックの会場は紛争の舞台になったり、墓地になったりしてしましました。

    サラエボオリンピックの会場がそのまま墓地になっています。

    サラエボオリンピックの会場がそのまま墓地になっています。


     
     

    激動の歴史を歩んだサラエボ

    サレエボの激動の歴史をまとめると下記のようになります。いかに短期間で色々な出来事があったか分かるだろう。この全ての出来事に関して、サラエボに行けばその時代の面影をみることができる。リゾートや観光都市として有名ではないが、歴史を感じたければ是非行ってみて欲しい。

  • 1914年:サラエボ事件
  • 1984年:サラエボオリンピック開催
  • 1992年〜1995年:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
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    ボスニア・ヘルツェゴビナにはサラエボ以外にも、モスタルという都市で同じように歴史を感じることができるのでぜひ。

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    ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルという街では、今でも過去の民族紛争の面影を見ることができる。橋によって居住区が分離されたボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルの歴史を紹介しながら、その面影をみて行きます。
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