マチュピチュ村は日本そっくり!?なんと初代村長は日本人だった!
マチュピチュの麓にあるマチュピチュ村、なんとその初代村長が日本人だった事実をご存知だろうか。マチュピチュはペルーにあり、日本人の人気観光先ということで年々日本人観光客が増えてきている。
そんなマチュピチュを観光するにあたって、観光客が宿泊する場所がマチュピチュの麓にあるマチュピチュ村なのだ。私はマチュピチュ村の初代村長が日本人だったなんて知らずに行ったが、マチュピチュ村に着いた瞬間になんだか懐かしい雰囲気を感じた。
それは、初代村長である野内与吉が母国である日本を意識した村づくりをしていたからだ。それでは、マチュピチュ村と初代村長の野内与吉を深掘りしていこう。
日本を感じるマチュピチュ村とは!?
世界遺産であるマチュピチュは、ペルーのアンデス山麓にある。インカ帝国の首都であるクスコから数時間で行ける立地にあるが、マチュピチュは標高が2430mもあるので山を鉄道がバスで登らないといけない。
そんなマチュピチュ観光客の憩いのスポットになっているのが、マチュピチュ村である。マチュピチュ遺跡付近には宿泊施設がないので、観光者の殆どがマチュピチュ村のホテルに宿泊することになる。
マチュピチュ村からはシャトルバスでマチュピチュ遺跡へ行くことができ、このシャトルバスは毎日運行している。村は人口約3000人程で歩いて周れるほど小さいが、観光客で活気のある自然に囲まれた美しい村だ。
このマチュピチュ村という名前は名称で、正式名所は「アグアス・カリエンテス」という。現地の言語で「熱い水」という意味を指し、その名の通りこのマチュピチュ村には温泉があるのだ。
この温泉と山から流れる川、マチュピチュ村の町並みを見て私は日本をまず最初に感じた。それでは、何故こんな山奥にあるマチュピチュ村の初代村長が日本人になったのか見ていこう。
マチュピチュ村の初代村長は日本人!
まずは、マチュピチュ村の初代村長である野内与吉の経歴について見ていこう。野内与吉は1895年に福島県安達郡大玉村に生まれた。地元でも名の知れた裕福な家庭に生まれるが、海外で成功したいという想いを胸に海外へ旅立つ。
選んだ国はペルー、1917年に契約移民として日本を飛び出したのだ。野内与吉は国鉄であるクスコ-サンタ・アナ線に勤め、クスコ~マチュピチュ間の線路拡大工事に携わった。
マチュピチュに路線を引いてみたものの、その当時マチュピチュ村は全く発展していなかったので、快適に暮らせるような場所ではなかった。そこで日本人である野内与吉は、日本で学んだノウハウを活かしてマチュピチュ村発展へと貢献することになる。
マチュピチュ村に川から水を引いて畑を作って農業をしやすい環境を整え、水力発電所を作りマチュピチュ村へ電力を供給した。そのあと1935年には、3階建て木造建築の「ホテル・ノウチ」をオープン。
「ホテル・ノウチ」は、1階は交番、2階は裁判所や村長室、3階は宿泊施設という設計にして、マチュピチュ村にとって重要な役割を果たすようになった。
村人に信頼されるようになった野内与吉は、ついにマチュピチュ村の初代村長となったのだ。しかも現地の人ではなく、初代村長に日本人が選ばれたのが驚きである。
マチュピチュ村のどこが日本の温泉地みたいなの!?
最後にマチュピチュ村の写真をお届けします。写真を見たら日本にある温泉地みたいだと思うこと間違いなしですが、ここは日本から遠く離れたマチュピチュの麓にあるマチュピチュ村です。
マチュピチュは日本人に人気の観光地なので、マチュピチュ村に行ったことがある人や、これからマチュピチュ村に行く人が意外と多いかと思います。
遠く離れた国で日本を感じられる場所は世界にもあまり少ないので、こういった場所を日本人として大切にしたいと想うと共に、遠方から日本を想うことも旅行の醍醐味かもしれません。
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